日本憲法の歴史

明治憲法

我が国の近代的憲法の歴史は,1889年の大日本帝国憲法(明治憲法)に端を発する.

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明治憲法の特色

明治憲法は,立憲主義憲法ではあるものの,神権主義的な特色が強い憲法であった.

主権が天皇に存することを基本原理とし,天皇の地位は,神の意思に基づくものとされた.天皇主権については,1条が規定する.

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

また,天皇の地位は3条により,「神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められた.天皇は,4条に基づき,「統治権ヲ総攬」する者とされ,立法・司法・行政などすべての国家作用を掌握し統括する権限を与えられた.

他方,明治憲法には,近代立憲主義的憲法の側面を有していたものの,それらは不完全なものであった.まず,権利・自由の保障はされていたものの,それらは生来的なものではなく,天皇が臣民に恩恵として与えたもの(臣民権)であった.臣民の権利・自由は「法律の留保((権利を保障する憲法において,その権利が法律によれば制限・侵害されるとの定めがなされる場合において,権利保障が法律上のものでしかないことを意味する。(世界大百科事典 第2版)))」を伴い,法律の範囲内において認められたものに過ぎないのであった.

また,権力分立制は採用されていたが,各機関は天皇の大権を翼賛する機関に過ぎなかった.帝国議会は天皇の立法権に「協賛」し(5条),各国務大臣は所管の行政権につき天皇を「輔弼」し(55条),裁判所は司法権を「天皇ノ名ニ於テ」行う(57条)こととされた.議会の権限は,立法,緊急事態に対する措置において大きく制限されていた.また,公選に基づかない貴族院が衆議院と同等の権限を有し,衆議院の権能を制限した.

立憲主義的側面の後退

神権主義的側面の強い明治憲法を自由主義的に解釈しようとする学説の影響,政党の発達を受け,「大正デモクラシー((大正期に顕著となった民主主義的思潮。都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動・普通選挙運動が展開され、吉野作造の民本主義や自由主義・社会主義の思想が高揚した。(デジタル大辞泉)))」が高揚し,政党政治が起こった.その影響を受け,天皇制は国務大臣の議会に対する責任の原則に基礎づけられ,議会制民主制として機能した.

しかしその後,軍部の勢力の増大とともにファシズム化が進展し,天皇機関説事件などが起こり,明治憲法の立憲主義的側面が後退した.

日本国憲法

成立の経緯

1945年,第二次世界大戦において日本は,無条件降伏を内容とするポツダム宣言を受諾した.憲法制定との関係で問題となった条項は,以下の2つである.

(10) […] The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

(12) The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.

10条 […] 日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。

12条 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。

重要な問題は,ポツダム宣言の条項との関係で「国体」を維持できるかどうかである.「国体」は次の3つの内容を含む.

  1. 天皇に主権が存することを根本原理とする国家体制
  2. 天皇が統治権を総攬するという国家体制
  3. 天皇を国民のあこがれの中心とする国家体制

ポツダム宣言の12条は,国民主権の原理を採用することを要求するため,天皇主権を内容とする明治憲法を改正しなければならなかった.

1945年10月9日,幣原喜重郎内閣が誕生すると,同内閣は,国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査委員会を発足させた.松本国務大臣は,以下の松本四原則を掲げた.

  1. 天皇が統治権を総覧するという原則には変更を加えない。
  2. 議会の権限を拡大し、その結果として大権事項を制限する。
  3. 国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめ、国務大臣は議会に対して責任を負うものとする。
  4. 人民の自由・権利の保護を強化し、その侵害に対する救済を完全なものとする。

松本四原則は,議会の権力を強化し,天皇・政府へのコントロールの強化が図られた.他方で,天皇が統治権の総攬する者であるという「国体」の内容は変更されなかった.

以上の四原則に従い作成されたのが松本案である.松本案の主な項目は以下の通りである.

  1. 明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を「天皇ハ至尊ニシテ
    侵スヘカラス」と改める。
  2. 軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の
    対象とする。
  3. 衆議院の解散は同一事由に基づいて重ねて行うことはできないこととする。
  4. 緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。
  5. 宣戦、講和及び一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする。
  6. 日本臣民は、すべて法律によらずして自由及び権利を侵されないものとす
    る。
  7. 貴族院を参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する。
  8. 法律案について衆議院の優越性を認め、衆議院で引き続き三回その総員三
    分の二以上の多数で可決して参議院に移した法律案は、参議院の議決の有無
    を問わず、帝国議会の協賛を経たものとする。
  9. 参議院は予算の増額修正ができないこととする。
  10. 衆議院で国務各大臣に対する不信任を議決したときは、解散のあった場合
    を除くのほかその職にとどまることができないものとする。
  11. 憲法改正について議員の発議権を認める。

2月8日に,松本案に若干の加筆改訂が加えられ、総司令部に提出された.しかし,保守的な松本案の内容を知った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は,独自の憲法草案を作成することにした.連合国軍最高司令官マッカーサーは,次のマッカーサー・ノートを草案に組み入れることを命じた.

  1. 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う。
  2. 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
  3. 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。予算の型は、英国制度にならうこと。

以上の原則に従い作成された総司令部案(マッカーサー案)を受け,日本政府は,松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが,この要求は認められず,マッカーサー案に基づいて草案を作成することとなった.

まず3月4日に,総司令部案に基づき日本側が起草した三月二日案が,総司令部に提出された.3月6日には,三月二日案を基に日本側と総司令部側が逐条審議を行い、内閣から「憲法改正草案要綱」が発表された.その後4月17日,改正草案要綱が成文化された「憲法改正草案」が作成され,正式の大日本帝国憲法改正草案となった.

5月22日に第一次吉田茂内閣が成立すると,「憲法改正草案」は明治憲法73条の定める手続に従って,6月20日第90回帝国議会の衆議院に提出された.衆議院で原案が可決されると,貴族院に送付され,貴族院でも可決された.その後,改正案は枢密院の審議を経て,11月3日「日本国憲法」として公布された.

日本国憲法成立の法理

日本国憲法は,明治憲法73条の定める手続に従って成立した.これによって明治憲法と日本国憲法の間に完全な法的連続性が保障されたように見える.しかしながら,日本国憲法の前文には,「日本国民は,[…] この憲法を確定する」とされ,憲法改正権者は国民であることを明らかにし(96条),天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)と規定するなど,その内容が大きく変わっている.問題は,成立手続と成立した憲法の内容の齟齬をどのように理解するかである.

この問題に対して,明治憲法との法的連続性を否認する説(A説)と明治憲法との法的連続性を肯定する説(B説)が存在する.

A説は,憲法改正限界論に立脚するもので,主権(憲法制定権力)の変動がある点,また,明治憲法は「憲法ノ条項」の改正を予定しているのにそれを行わなかった点で,改正の限界を超えており,そのため,明治憲法と日本国憲法の間に法的連続性は存在しないとする.このA説には,さらに進んで,日本国憲法は当然に無効であるとする説(A1説)と,他の論拠により有効であるとする説(A2説)が存在する.

B説は,憲法改正無限界論に立脚するもので,日本国憲法は当然に有効であるとする説(B1説)と,他の論拠により無効であるとする説(B2説)が存在する.

日本国憲法を無効とする説

日本国憲法を無効とする説は,A1説とB2説である.

A1説については,明治憲法からみて日本国憲法は無効であるとするにとどまる.すなわち,日本国憲法の効力は,日本国憲法を支える意思と諸力の存否にかかわる問題である.日本国憲法の成立以来,日本の政府はこの憲法に基づいて形成・維持されてきた.この事実がある以上は,日本国憲法を当然に無効とするのは適切ではない.

B2説の憲法改正限界説以外の論拠とは,(1)占領者は絶対的支障のない限り占領地の現行法律を尊重すべきであるとする1907年のハーグ陸戦条約((Art. 43. The authority of the legitimate power having in fact passed into the hands of the occupant, the latter shall take all the measures in his power to restore, and ensure, as far as possible, public order and safety, while respecting, unless absolutely prevented, the laws in force in the country.))に違反すること,(2)当時の日本は占領管理体制下にあって国家の自主性の余地がなかったことが挙げられる.

(1)については,ハーグ陸戦条約は交戦中の占領についての規程であり,日本の「占領」に適用可能かどうかという問題がある.さらに,適用可能であったとしても,ポツダム宣言等が同条約に優先して適用されると考えることもできる.(2)については,占領管理体制下にあったということができるかもしれないが,そのような事情の中で日本の政府の独自の決断と国民の判断がなされたとみるべきである.

日本国憲法を有効とする説

日本国憲法を有効とする説は,A2説とB1説である.

A2説は,八月革命説で説くのが一般的である.八月革命説とは,ポツダム宣言は国民主権の要求を含むと解すべきであるが,そのような内容の宣言は明治憲法に反するにもかかわらず,あえてそれを受諾したということは,その時点において一種の革命があったとし,革命によって主権者となった国民が日本国憲法を制定したため,有効であるという考え方である.しかしこの説には,以下のような問題がある.

  1. ポツダム宣言が国民主権の要求を含むものであったかどうかは疑問である.
  2. ポツダム宣言の受諾は国際法上の義務を負ったのみであり,国内法上の変革が生じたと解することはできない.
  3. ポツダム宣言受諾後も,占領軍の支配下であったが,明治憲法の定めるところに従い統治が行われたことを説明することが難しい.
  4. 明治憲法73条に定められた手続に従う改正であったことの根拠が薄弱になる.

したがって,むしろポツダム宣言受諾後も明治憲法の秩序は存続し,天皇は同宣言を履行する趣旨から明治憲法73条の手続に従って改正案を帝国議会に提出したと解するのが適切である.

A2説の別の論拠として,帝国議会における改正案の審議過程において,「日本国憲法」を制定する主権者たる国民の意思が顕現し,同時に一定の政治的配慮の下,明治憲法所定の手続が借用されたと解することができる(段階的主権権限説).

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